前回(2025-03-30)述べたように、硝酸銀による塩化物イオンの滴定においては、指示薬としてクロム酸カリウムを用いるモール法がよく用いられます。今回はモール法における銀イオン、塩化物イオン、クロム酸イオンの濃度変化の様子および滴定誤差について調べます。
硝酸銀による塩化物イオンの滴定における終点検出法としては、機器による方法と指示薬による方法に大別できます。機器法としては、電位差計がよく用いられ、測定精度や自動化の面で優れています。しかしコストや操作の簡便性の面を考えると、指示薬法の方が有利な場合も多くあります。指示薬法としては、クロム酸カリウムを用いるモール法、チオシアン酸鉄(III)を用いるフォルハルト法、吸着指示薬を用いるファイアンス法などがあります。ここではモール法について説明します。
AgClとAg2CrO4の溶解度を比べると、AgClの方がかなり小さいので、Cl-を含む試料溶液に少量のK2CrO4を加えてAgNO3で滴定すると、まず先にAgClが定量的に沈殿します。当量点を過ぎて溶液中のAg+が増加し始めるとすぐに、今度は赤色のAg2CrO4が沈殿し、この色の変化で終点を検出することができます。
モール法では、添加するK2CrO4濃度の調整が重要です。適切なK2CrO4濃度を計算で求めます。
[Ag][Cl]=Kspl=10^-9.6 (μ=0.03)
当量点においては、[Ag]=[Cl]なので、
[Ag]^2=Kspl
一方、
[Ag]^2[CrO4]=Kspr=10^-11.5 (μ=0.03)
したがって、当量点においてAg2CrO4が沈殿するためには、
[CrO4]=Kspr/[Ag]^2=Kspr/Kspl=10^-1.9=0.013
(mol/L)
つまり、当量点において丁度Ag2CrO4が沈殿するためには、[CrO4]=0.013 mol/LとなるようK2CrO4を加えるのがよいことが分ります(*1)。
(*1) イオン強度0.03における溶解度積の値は、pKºspl = 9.74, pKºspr = 11.92からデービス式(k=0.2)(2024-09-15)を用いて算出した。
しかし、目視測定においてAg2CrO4の赤色沈殿を認識するためにはCrO42-イオン自身の色(黄色)はできるだけ薄いほうがよく、実際の滴定においてはK2CrO4の濃度は、終点付近で0.005
mol/L程度が適切であることが知られています。
濃度がおよそ0.005 mol/LとなるようにK2CrO4指示薬を加えたとき、滴定誤差がどの程度になるか、近似法あるいはソルバーを用いて計算します。
<<化学種濃度の分布>>
滴定誤差を考える前に、次のような問題を考えます。
例題1 Ccl=0.01 mol/LのNaClおよびCcr=0.005 mol/LのK2CrO4を含む溶液にCag mol/LとなるようAgNO3を加えたときの、溶液中の化学種濃度分布を求めよ。ただし、AgNO3の添加による体積変化はないものとする。
AgClの溶解度積KsplおよびAg2CrO4の溶解度積Ksprは、それぞれ、
pKspl = 9.6 (μ=0.03)
pKspr = 11.5 (μ=0.03)
とする。
また、pHをほぼ中性に調整することで、CrO42-のHCrO4-, Cr2O72-への変化はないものとし、AgOH, Ag(OH)2-その他の副反応も無視する。
<平衡式>
反応式と溶解度積式は次のとおり。
Ag+ + Cl- ⇄
AgCl↓ , Kspl = [Ag][Cl]
2Ag+ + CrO42- ⇄ Ag2CrO4↓ Kspr =
[Ag]^2[CrO4]
<物質バランス>
Ccl = [Cl]+[PPTagcl] …①
Ccr =
[CrO4]+[PPTag2cro4] …②
Cag = [Ag]+[PPTagcl]+2[PPTag2cro4] …③
③-①-2×②より、
Cag-Ccl-2Ccr = [Ag]-[Cl]-2[CrO4]
つまり、
R=Cag-Ccl-2Ccr-[Ag]+[Cl]+2[CrO4] = 0 …④
が成立する(④式は沈殿が生成しないときも成立する)。
<ソルバーによる化学種濃度の算出>
[Ag] = 10^-pAg
[Cl] = Kspl/[Ag]
[CrO4] = Ccr …Ag2CrO4が沈殿しないとき([Ag]^2[CrO4]<Kspr)
または、
[CrO4] = Kspr/[Ag]^2 …Ag2CrO4が沈殿するとき(沈殿生成前:[Ag]^2[CrO4]>Kspr)
与件としてCagを与え、R=0を目的セルとし、pAg(=-log[Ag])を変数セルとしてソルバーを実施して、各化学種濃度を算出する。
境界点においては、R=0を目的セル、pAg, Cagを変数セル、[Ag]^2[CrO4]/Kspr=1を制約条件としてソルバーを実施する。
結果の抜粋を図-1に示し、Cagと各化学種濃度の関係を図-2に示す。
図-1, -2から明らかなように、0.005 mol/LとなるようにK2CrO4指示薬を加えると、当量点よりもほんのわずかだけ後でAg2CrO4の赤色沈殿の生成が始まることが分ります。
<<滴定誤差>>
Cclo mol/LのNaCl溶液 Vcl mLにCcro mol/LのK2CrO4指示薬 Vcr mLを加え、Cago mol/LのAgNO3標準溶液で滴定することを考えます。AgNO3標準溶液の滴下量をT mLとするとき、当量点においては、次式が成立します。
CcloVcl = CagoTeq (Teq:当量点における滴下量)
Teq = CcloVcl/Cago …⑤
また、図-1から分かるように、加えられたK2CrO4指示薬が少量の場合、当量点においてAg2CrO4の沈殿は生成しません(これが滴定誤差の原因です)。Ag2CrO4の沈殿が生成しないとき、
[CrO4]eq = Ccro×Vcr/(Vcl+Vcr+Teq) …⑥
終点(*2)におけるAg+濃度、Cl-濃度、CrO42-濃度をそれぞれ[Ag]end ,[Cl]end ,[CrO4]endとすると、
Kspr = [Ag]end^2[CrO4]end
したがって、
[Ag]end =
√(Kspr/[CrO4]end) …⑦
が成立します。
(*2)
Ag2CrO4の赤色沈殿が目視で確認できるようになる点が実際の終点であるが、ここでは沈殿が開始する境界点を終点と考える。
滴定誤差は終点が当量点に一致しないために起こる誤差率です(2023-09-03)。滴定誤差は次式で表されます。
E = (Tend-Teq)/Teq
ここで、Tend:終点の滴下量(mL)、Teq:当量点の滴下量(mL)
具体的な例について、滴定誤差を求めます。
例題2 (1) 0.01 mol/LのNaCl溶液 25 mLに0.25
mol/LのK2CrO4指示薬 1 mLを加え、0.01mol/LのAgNO3標準溶液で滴定するときの滴定誤差を求めよ。
(2) 0.1 mol/LのNaCl溶液
25 mLに0.25 mol/LのK2CrO4指示薬 1 mLを加え、0.1mol/LのAgNO3標準溶液で滴定するときの滴定誤差を求めよ。
(1) AgClの溶解度積KsplおよびAg2CrO4の溶解度積Ksprを、それぞれpKspl = 9.6, pKspr
= 11.5とする (μ=0.03)。
また、pHをほぼ中性に調整することで、CrO42-のHCrO4-, Cr2O72-への変化はないものとし、AgOH, Ag(OH)2-その他の副反応も無視する。
⑤式から、当量点での滴下量は、
Teq=0.01×25/0.01=25 (mL)
また、⑥式から、
[CrO4]eq=0.25×1/(25+25+1)=4.90×10^-3
(mol/L)
となる。
Ag2CrO4の沈殿生成が始まる終点では、⑦式から、
[Ag]end = √(Kspr/[CrO4]end)
ここで、[CrO4]end≈[CrO4]eq (∵Vend=Vcl+Vcr+Tend≈Vcl+Vcr+Teq=Veq)
とすると、
[Ag]end≈√(Kspr/[CrO4]eq)=√(10^-11.5/(4.90×10^-3))=2.54×10^-5 (mol/L)
しかし、[Ag]endにはAgClの溶解に由来する[Ag]clも含まれ、この[Ag]clは[Cl]endと等しい。
[Ag]cl=[Cl]end=Kspl/[Ag]end=10^-9.6/(2.54×10^-5)=9.88×10^-6
(mol/L)
終点で過剰に加えられた滴定剤由来の[Ag]titを知るためには[Ag]endから[Ag]clを差し引く必要がある。
[Ag]tit=[Ag]end-[Cl]end=1.55×10^-5 (mol/L)
終点の溶液の体積はVend≈51 mLなので、滴定剤由来のAg+のミリモル数は、
([Ag]end-[Cl]end)Vend=1.55×10^-5×51=7.91×10^-4 (mmol)
これに対応する滴定剤の体積(Tend-Teq)は
Tend-Teq=([Ag]end-[Cl]end)Vend/Cago=7.91×10^-4/0.01=7.91×10^-2
(mL)
したがって
E(%)=(Tend-Teq)/Teq×100=7.91×10^-2/25×100=0.32% (*3)
つまり、終点では当量点の滴下量より0.32%だけ余分に添加されたことになる。
(*3)
(2023-09-03)の類推から、
E(%)
= ([Ag]end-[Cl]end)(Cclo+Cago)/(Cclo×Cago)×(Vcl+Vcr+Teq)/(Vcl+Teq)×100
を用いてもよい。
(2) (1)と同様に、
Teq=0.1×25/0.1=25 (mL)
[CrO4]eq=0.25×1/(25+25+1)=4.90×10^-3 (mol/L)
[Ag]end≈√(Kspr/[CrO4]eq)=2.54×10^-5 (mol/L)
[Ag]cl=[Cl]end=Kspl/[Ag]end=10^-9.6/(2.54×10^-5)=9.88×10^-6
(mol/L)
[Ag]tit=[Ag]end-[Cl]end=1.55×10^-5 (mol/L)
終点の溶液の体積はVend≈51 mLなので、滴定剤由来のAg+のミリモル数は、
([Ag]end-[Cl]end)Vend=1.55×10^-5×51=7.91×10^-4 (mmol)
これに対応する滴定剤の体積(Tend-Teq)は
Tend-Teq=7.91×10^-4/0.1=7.91×10^-3
(mL)
したがって
E=7.91×10^-3/25×100=0.032%
例題2(1),
(2)について、エクセルのソルバーを用いてもう少し厳密に解きます。この場合、Vend≈Veqの近似は行っていません。結果を図-3に示します。他の条件における滴定誤差についてもいくつか併せて載せています。試料濃度や滴定剤濃度が低くなると、滴定誤差が大きくなることが分ります。滴定誤差が無視できない場合が空試験を行って補正する必要があります。



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